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歯科医から見た学校給食 その【5】GHQと学校給食

2015年01月30日

学校給食について考える際には、その歴史についても触れておく必要がある。

さて、日本の学校給食は1889年(明治22年)山形県鶴岡市の私立忠愛小学校に始まる。

この学校は、僧侶たちが教育のため大督寺内に開設したものだ。

しかし、子ども達の大半は、貧困のため弁当を持参することができない。

そこで地域を廻り托鉢により浄財を募り提供した。

メニューは「おにぎり」・「焼き魚」・「漬物」の3品であったと言う。
(図1)
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その後、欠食児童対策として一部の学校で配られるようになったが、戦争による食糧事情の急速な悪化に伴い中断された。

そして1945年以降アメリカなどからの食糧援助によって再開された。

その経緯を調べていたら、GHQと日本の官僚の興味深いやりとりがあったので紹介する。

終戦直後、日本は困窮を極め最悪の食糧難の時代であった。

大都市においては月に数十人、上野公園では1日6名が飢餓でなくなっていた。
緊急の保護を必要とする孤児は、1万2千名と推定されていた。

また小児期の低栄養は、生涯の身体的な発達に対しても深く影響することも知られていた。

国連代表の元米大統領フーバーは、この実情を見て救援物資を送るように提言した。

そこでLARAなどの団体から 莫大な食糧援助を受けた。

GHQは、それを戦災者・戦災孤児・引揚者などに分配するよう指示し、多くの人々を飢えから救った。

さらにフーバーは、「子ども達に食べ物を与える学校給食は、もっとも人道支援として重要なものだ」と主張した。

そこでGHQの軍医であるサムス大佐(後、准将)が責任者となった。
(図2)
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実際、当時の日本には育ち盛りの小学生が130万人もいた。

大佐は、学校給食の実施に向けて日本の各省庁に打診した。

しかし話し合いは難航した。

官僚たちは、主旨には賛成するが実施は無理だと言った。

農林省の回答は
「成人の食糧さえ不足しているのに、
子どものために新たに調達するのは不可能である」

文部省は
「空腹で疲れ果てている教師が、給食の世話までできない。
また給食のために新たな職員を雇う余裕はない」

大蔵省は
「そのような予算がないので不可能である」と答えた。

そこでサムスは
「とりあえず米軍の食糧を給食のために供与する。
政府は後で返してくれれば良い」と提案した。

各官僚は、2週間後返事をすると述べ省庁に持ち帰った。

しかし回答は、「米軍の食糧を借りても、将来返せる見込みがない。」
と言うものだった。

さて、そこでサムスは最後の提案は「米軍が差し押さえた日本軍の物資に缶詰などがある。これを放出すると同時に、LARA物資の一部を学校給食に廻して欲しい」というものだった。

その後も官僚は諸経費の捻出が困難であると、煮え切らない態度をとり続けた。

しかしサムスの尽力により、1946年に学校給食は開始された。

そして短期間で成果を上げ、子ども達はみるみる元気になっていったのだ。
(図3)
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このように日本の学校給食は、飢餓対策から出発したのである。

しかし時代は流れ、現在は食べ物が満ち溢れ飽食の時代となった。

それとともに、肥満や生活習慣病の予備軍が目立ち始めた。

そこで食育基本法が制定され、学校給食もあらたな時代に入ったのだ。

注1:GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)
注2:Licensed Agencies for Relief in Asia(アジア救済公認団体)

参考文献:
1:二至村菁:日本人の生命を守った男、講談社、2002年
2:杉晴夫:栄養学を築いた巨人たち、講談社ブルーバックス、2013年
3:岩崎美智子:「ララ」の記憶-戦後保育所に送られた救援物資と脱脂粉乳、東京家政大学博物館紀要、2009年

前 岡山大学病院 小児歯科 講師
国立モンゴル医科大学 客員教授
岡崎 好秀
⇒ http://leo.or.jp/Dr.okazaki/