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要介護高齢者の臨床現場

2004年10月18日

介護老人福祉施設に入居している、重度痴呆の患者さんが受診した。病名は重度痴呆のほか症候性てんかん、直腸癌術後(人工肛門)で意思の伝達は難しく、気に入らないことがあると暴力をふるう患者さんであった。
1週間くらい前から不隠、感情失禁、徘徊、暴力などがひどくなったと、疲れた顔をした看護師が連れてきた。どこか体調が悪いのかと内科を受診させても原因不明であり、いつもなら気持ちよくて機嫌が良くなるはずの膀胱洗浄をしても変化がなく、お気に入りのお人形を持たせても投げつけ、ありとあらゆることを試しても状況は改善しないと、困り果てていたそうだ。

口腔内は、上顎7┴7のみが残存し、上顎はpartial dentureを使用し、下顎は義歯を使用していなかったが、この上顎のpartial dentureを一週間前に紛失したことに気がついた。色々と原因を探ったが問題は解決せず、結局「義歯がないこと」じゃないか、できればそうあってほしいと、藁にもすがる思いでの受診とのことだった。

私自身も半信半疑であったが、印象、咬合採得、試適...と治療を進めた。
もちろん簡単ではなかった。できるだけほかの患者さんがいない時を選んで2、3人で抑制しながら、「叩く、蹴る、叫ぶ」患者さん、そして術者共に安全に治療を進めることが必要であった。手の抑制は手首を持ってはいけない、頭部は抑制するのであって固定するのではない、アルジネートが1分30秒くらいで硬化するように水の温度を調整して練る、足の動きは一段落したと思ったときに気をつける...常日頃から歯科衛生士達との あうん の呼吸のチームワークが必要である。うちの歯科衛生士達は本当に良くやってくれる。

この患者さんは、元看護師で師長経験者だったので、「婦長さん、婦長さん、患者さん見てるよ、がんばっているところ見せてやろう!」と、声をかけながらの治療であった。痴呆は短期記憶から徐々に欠落してゆき、長期記憶が残っているはずだから...このあたりのことは、まだ記憶に残っているだろうかと思いながらの声掛けであったが、一瞬考え込んだり静かになったりの反応はあったが拒否は変わらなかった。

しかし、これだけ治療に対して拒否反応の強い状況で、新義歯を作っても使用してくれるのだろうか? 西村式老年者用精神状態尺度が20点以下になればその低下とパラレルに使用率が低下するから、この患者さんの場合は使用できないかもしれない。でも1週間前まで使用していたのだから、その義歯とほとんど異物感が変わらない義歯であれば使用できるかもしれない。歯肉に義歯の圧痕は残っているだろうか。笑ったときの写真は施設にないだろうか。色々と考えながら、そして不安感がいっぱいの中での治療であった。

そして、新義歯装着時には、義歯を口の中に入れようとすると強い拒否があった。しかし、押さえつけて義歯を慎重に入れると、最初は顔をしかめながら舌でペチャペチャ義歯をなめ回した後、突然ほおづえをついて目を閉じてしまった。「婦長さん!入れ歯どう?」と、声をかけても反応はなかった。看護師と相談し、自己表現の強い痴呆の人は痛みに対する反応はストレートに出ることが多いので、痛いなら自分ではずすだろうと、経過を観察することになった、

翌日、3日後と義歯調整で受診した。施設では義歯を外したがらず入れっぱなしであるとのことだったが、診療室では指示に従い口を開け、義歯の着脱もさせてくれた。話に対してもうなづきながら反応してくれた。そして、不隠、感情失禁、徘徊、暴力などの症状は、義歯装着前1週間のようなひどい状況ではなくなり、気分の変動によって多少はあるようだが、元のほぼ平穏な状況に戻ったとのことであった。

もし、こんなに拒否が強いなら義歯は作れないし、作っても使えるわけがない。と、治療をしなかったら、この患者さんはどうなっていただろうか?義歯は決して生理、機能、審美の改善保持のためだけのものではない。
高齢者にとっての義歯治療の重要性を再認識した症例であった。
 
 
講演会ではこの症例も含めて、色々な症例ビデオを紹介する予定である。
 
 
【参考文献】
 1)藤本篤士:肩肘張らずあきらめず.月刊おはよう21(5月号),9(11):78-81,1999.
 2)藤本篤士:ケア・ノート 痴呆性高齢者への口腔ケア.老年歯科医学:40-43,18(1)、2003.