2003年01月20日
“希望とは地上の道のようなものである。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ”<魯迅>
“希望は生命の形成力であり、我々の存在は希望によって完成する”<三木清>
この世で生命と同等に大切なもの、それは健康であり平和だろう。だが、人類にとって新世紀の幕開きは決して希望に満ちたものではなかった。
“僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる”<萩原朔太郎>
この混沌とした不確実な時代こそ、強かな信念と希望をもって生きなければ・・・・。
というわけで、希望という栄養素がつまった味わいある言葉のいくつかを賞味してみよう。アペリチフ(食前酒)として…。
“だから、あしたのことを心配するな。あしたはあしたが自分で心配する。一日の苦労はその日の分で沢山である”<新約聖書>
こんな風に言われると、くよくよするのがバカらしくなるではないか。太宰治の「女生徒」の一節に、“きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう”とあった。
“前途は遠い。そして暗い。しかし恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。行け。勇んで。小さき者よ”<有島武郎>
高校時代、「惜しみなく愛は奪ふ」を何度も読んだ記憶がある。タイトルにキュンときたのだろう。失恋するたびに読み耽ったわけではないが、“行け。勇んで。小さき者よ”に元気をもらったのも事実。ナニクソッ、今にもオレだってと…。
“何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれた時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時”<旧約聖書:コヘレトの言葉>
人類の起源は知る由もないが、悠久の時間に思いを馳せるたびに浮かぶ言葉は、運命の二文字。ダダダダーン、ダダダダーン。自分がだれで、なぜこの世に生を受けたのか…。旧約聖書は、その問いにひとつの答えを示してくれている。人類普遍の古典たる所以だろう。
“運命というものは、人をいかなる災難にあわせても、必ず一方の戸口をあけておいて、そこから救いの手を差しのべてくれる”<セルバンテス>
自分の運命について深く考える時期は、いつ頃だろう。台風のような怒涛吹き荒れる青春時代は、挫折あり、失望あり、試練あり、失恋あり・・・。
だが、人生は希望という一条の光を注いでくれるではないか。
ジョニミッチェルの“青春の光と影”のように…。
次回も、希望がふつふつと沸いてくる言葉のあれこれを、勝手味わってみようかと思う。
“明日を最も必要としない者が、最も快く明日に立ち向かう”〈エピクロス〉