2003年02月03日
“あわてるな。昔はみんな歩いてた”<四国の道路標識>
大学生の頃、四国を貧乏旅行した。むろん高速道路などはなく、スバル360のパトカーが走るのどかな時代。砂ぼこり舞いたつ地道をとぼとぼと歩いていると、眠気に襲われ異郷へタイムスリップするような錯覚に陥った。
30年後、四国取材の途上、道に迷う。目をやると、道沿いで見かけたのがこの標識だった。何ごともスロースタイルが流行る昨今、心が春風みたいに軽くなってしまった。
“自分の感性くらい 自分で守ればかものよ”<茨木のり子>
“あさはこわれやすいがらすだから東京へ行くな ふるさとを創れ”<谷川雁>
「私の横っ面をはたいた本100冊」という本を古本屋で見つけたことがあった。著名人100人が感動したり目を覚まされた“生涯の一冊”を披瀝した解説本だ。博覧強記、百人百様、多士済々の執筆陣を見ただけで、自分も横っ面をはたかれた、まさに晴天の霹靂の一冊だった。
晴天の霹靂といえば、先の2つの詩の一節もそうだ。“自分で守ればかものよ”の痛烈カウンターパンチ!“東京へ行くな”の脆弱な大都会に投げつけた静かなアイロニー!
“ふるいものを出さなければ、あたらしいものは入らない”<相田みつを>
トイレの日めくりは分かりやすくしなければならない。座してひとり悩むようではカラダに毒だ。チカラを抜いてα派を出しましょう。血の巡りがポッポとよくなれば、たちまちスッキリ・・・。禅の道を歩んだ相田みつをという人は、とてもわかりやすい。
“よき雲はこころを濡らし よきこころ雲に洗われる”<作者不詳>
琵琶湖の湖北地方を取材した折、宿で偶然見つけたもの。禅問答のようなリズムが心地よく、印象派の絵のように、湖北の情景がしっとりと折り重なって見えたのだった。
“私は掘り出された刹那の芋の如き存在でありたい”<高橋新吉>
“身土不二、一物全体”という言葉がある。身土不二とは身体(身)と環境(土)はバラバラではない(不二)、つまりその土地と季節に合った食べ物をたべること。一物全体とは一つの物を丸ごと食べること。人もまた自然のパズルの、ひとつのピースにすぎないと気づかされる。
掘り出された刹那の芋には山も谷もある。握れば温かく、ずしりと重い。名もないこの芋もひとつの宇宙なのだから。
のどかな日だまりのなかで、次回も、ことばの道草三昧ができれば、幸せだなと思いつつ…。
“光のあるうちに光の中を歩め”<トルストイ>