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【2】歯にしみる酒

2018年01月15日

「それほどにうまきかとひとの問ひたらば何と答へむこの酒の味」

は酒を愛し、旅を愛した若山牧水の歌です。

彼は肝硬変のため、43歳で亡くなりました。

それは残暑の厳しい時期(1928年9月17日)で、死後しばらく腐臭がしなかったのは、
生きたままアルコール漬けになったからではないか、との逸話が残っています。(参考文献1)

しかし、事実かどうかはいささか怪しいものがあります。

牧水は約7,000首の歌を詠んだとされていますが、
歯科医師として気になる一首があります。

「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりける」

疑問は、「牧水が飲んだ酒は本当に歯を通過したのか?」ということです。

エナメル質の大部分はヒドロキシアパタイトから成っていて、
象牙細管・その内液を有する象牙質と比べると、エナメル質の透過性は極めて低いです。

したがって、一般に酒が健康なエナメル質を滲み通ることはないといえます。

しかし、何らかの理由によってエナメル質が失われ象牙質が露出すれば、酒でも水でも確実に滲み通り歯髄に伝わります。

たとえば、動水力学説によると、
露出した象牙質の中の象牙細管内には組織液(象牙細管内液)が入っていて、
さまざまな刺激に応答して外側(エナメル質側)へまたは内側(歯髄側)へと移動することによって、
神経終末(Aδ線維)の興奮を引き起して痛みが生じます。

そうなると、次の問題はエナメル質が失われる理由です。

理由として、

[1]むし歯
[2]歯ブラシの誤用による磨耗
[3]酸蝕症
[4]アブフラクション(abfraction)

の可能性が考えられます。

むし歯が原因で歯が滲みたとしたら、
美的センスからも歌に詠まないでしょうし、
「白玉の歯」とは表現しないに違いありません。

酒と自然を愛し、旅から旅への生活を送ったといわれる牧水が磨耗するほど熱心に歯を磨いたとも考えにくい。

毎日一升酒を飲んだとのことですが、
日本酒は歯の酸蝕症を引き起こすほど酸度が高いのかを調べてみると、
日本酒のpHは4で、ビール、白米、ヨーグルトと同じ水素イオン指数でした。

pH3の食品飲料には
林檎、食酢、栄養ドリンク、梅酒、スポーツドリンクがあります。

さらに酸度の強いものには、
pH2.6の赤ワイン、2.3の白ワインがあり、
pH2は梅干し、コーラ、レモン、胃液、となっています。(参考文献2)

コーラやワインに比べると、
日本酒は酸性ではあるもののマイルドの部類に入ります。

酸性の飲食物が口の中に入っても即座に大量の唾液が分泌されて、酸を中和します。

酸性飲食物が口の中に滞在する時間が短時間であることを考慮すると、
毎日一升日本酒を飲んだとしても歯の酸蝕症は容易には発生しないと考えられます。

上記の4つの可能性のうち、
もっともありそうなのはアブフラクションが誘引となって生じる知覚過敏症です。

アブフラクションとは、
ブラキシズムなどによって習慣的に強くて異常な力が歯に加わると、
薄い歯頸部のエナメル質に応力が集中するので、
エナメル質が破壊され、歯頸部に楔(くさび)状の欠損ができることをいいます。

「白玉の歯に……」の歌は明治43年の秋に長野を旅していたときの一首です。

この時26歳の彼は、意中の女性との結婚問題もうまくゆかず、
雑誌創刊も行き詰まり、苦悩の日々を送っていた、と年譜にあります。(参考文献1)

つまり、彼は強いストレスに曝され苦悩の酒を飲んでおり、
夜となく昼となくブラキシズムやクレンチングの強い力が歯に加わっていたと推測されます。  

咬合面に強い力が働くと、応力が歯頸部のエナメル質に集中します。

逆に力が加わらないと、応力は反対方向に向かいます。

このような歪みは、エナメル小柱の間に小さな隙間を作ります。

この隙間に唾液や食物・飲み物からの酸が入り込むとエナメル小柱を構成しているアパタイトの結晶が溶けて、
エナメル質の小柱と小柱の間の結晶結合が壊れて、楔状欠損として臨床的に観察されます。
 
エナメル質は、咬合面と異なり、
歯頸部では非常に薄くなっているため、エナメル小柱は壊れやすい。

この小柱が欠けるので、角の尖った楔状の欠損ができると考えられています。

楔状欠損の原因が歯ブラシによる磨耗であれば、
歯ブラシが硬いエナメル質を鋭い角度をつけて削ることは不可能で、
欠損はもっと丸みを帯びているはずです(参考文献3)

図 エナメル小柱とアブフラクション(文献 3を改変)

牧水の 「白玉の歯にしみとほる……」の歌は、

ストレス→酒→アブフラクション→歯頸部楔状欠損→動水力学説→象牙質知覚過敏

の結果であると推測できます。

日常臨床で歯頸部楔状欠損を認めたら、
欠損部を充填する前に、咬合(ブラキシズムやクレンチングの強い力)をチェックしてみてはいかがでしょう。

参考文献
1.伊藤一彦(編). 若山牧水歌集. 東京:岩波文庫,2004.
2.Mjapa.jp. 歯の健康.http://tooth-health.mjapa.jp/(2017年12月18日アクセス)
3.金子至、下野正基. 歯肉を読み解く. デンタルハイジーン別冊. 東京:医歯薬出版, 2014.

東京歯科大学名誉教授
下野 正基
http://www.quint-j.co.jp/shigakusyocom/html/products/detail.php?product_id=3520